■ Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.2旧石器時代〜弥生時代 ■
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1.旧石器時代
十数年前まで、日本列島はユーラシア大陸と
つながっていたが、氷河が溶けて海ができ、
約1万年前前に日本列島ができた。

長野県
野尻湖では大陸から移り住んだと言わ
れているナウマン像や大角鹿の化石が発見さ
れている。

日本列島ができるまでの十数万年間を旧石器
時代
という。

この時代の人々はほら穴などを住み、石を打ち
砕いて道具とする
打製石器や骨で作った道具
などを用いて、木の実などの採集や狩り、漁で
食べ物をとっていた。

日本で最初の打製石器が発見がされたのは、
1949年、群馬県
岩宿遺跡で、関東ローム層の
中から相沢忠洋が発見した。
大昔の日本

ナウマン像(千葉県印旛村)
打製石器

国立歴史民俗博物館
..... …数万年前は陸地だったところ
2.縄文時代
今から1万年前から紀元前3〜4世紀までを縄文時代という。

たて穴住居とよばれる家に住み、縄文土器(縄目のもようが
ついていることから、こうよばれる)で採集したものを煮たり、
磨製石器や動物の骨で作った骨角器を使って狩りや漁を
行なっていた。

食べた後は、
貝塚とよばれるゴミ捨て場に捨て、当時の生活
のようすを知ることができる。青森県
三大丸山遺跡やモース
によって発見された東京都
大森貝塚が代表的。

縄文時代には食べ物は平等に分け、貧富の差はあまりなかっ
た。

たて穴住居と貝塚(加曾利貝塚:千葉県)

縄文土器
 


磨製石器と骨角器

土偶
国立歴史民俗博物館
3.弥生時代
紀元前4〜紀元後3世紀ごろまでを弥生時代という。

大陸から
稲作が伝わり、低地に定住するようになった。
田げたをはいて水田に入り、木製のくわやすきで田を耕し、
種もみをじかに田にまき、収穫となる秋になると、
石包丁
1本ずつ稲の穂をつみとり、収穫した穂を
高床倉庫に貯蔵
した。

人々はたて穴住居に住み、土器は
弥生土器と呼ばれる、
縄文土器に比べて、うすでで固い赤褐色で、直線模様が
あるかないかを使っていた。

また、石器や土器のほかに、鉄器青銅器も大陸から
伝わり、鉄器は木を削ったり武器などの実生活に使われ、
青銅器は
銅剣・銅鉾・銅鐸などがあり、主に祭などに使わ
れた。

弥生時代は、収穫の量によって貧富や身分の差が生じ、

田げたと石包丁

弥生土器と青銅器
国立歴史民俗博物館  芝山古墳はにわ博物館
「むら」との間で水や土地をめぐる争いも起こった。やがて「むら」は連合などを行い、「くに」へと発展していった。

静岡県
登呂遺跡、福岡県板付遺跡、佐賀県吉野ヶ里遺跡が代表的。

弥生時代の日本のようすを知る手がかりとなるのが
中国の歴史書であり、中国では日本のことを「
(わ)」
と呼んでいた。その倭のくにの1つであった
奴国(なのくに)
の王が中国(漢)に使いを送り、皇帝から「
漢委奴国王
(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印を授かり、
江戸時代、福岡市の志賀島でその金印が発見された。

中国の
「魏志」倭人伝によると、倭のくにに邪馬台国
呼ばれるくにがあり、30あまりのくにをしたがえていたという。
その女王である
卑弥呼が239年に魏に使いを送り、
親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を与えられたという。
ただし、邪馬台国がどこにあったのかは、北九州説と
大和地方説に分かれており、特定できていない。

主な原始時代の遺跡
標準問題
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