■ Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.11 江戸時代 (2) ■
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1.江戸幕府の政治改革
 鎖国による国内政治は安定したものの、幕府の運営にはばく大なお金
を必要とした。5代将軍
綱吉は忠孝・礼儀を重視した政治を行った反面、
1685年に
生類哀れみの令という極端な動物愛護令を出したり、寺院の建
設やぜいたくな生活などを行い、また、
質の悪い貨幣を発行したため、
物価が上昇し、この頃から、幕府の財政は悪化していった。

 綱吉の死後、学者の新井白石が改革にのりだし、生類哀れみの令を
廃止し、貨幣の質を戻した。また、
長崎新令を定め、中国とオランダの貿易
を制限して輸出を増やし、金銀の流出を防ごうとした。これを
正徳の治とい
う。
徳川綱吉の筆

写真:東京国立博物館
 徳川吉宗が8代将軍になったころ、旗本や御家人に支給する米も不足していた。そこで吉宗は、質素・
倹約を強制する
倹約令を出し、大名からは参勤交代の期間を1年から半年に短縮する代わりに100万石
につき1万石の割合で米を上納させる
上げ米を行った。また、農民に対しては、年貢を収穫の四割を年貢
としていた
四公六民から五公五民に負担を重くし、新田開発も進めた。吉宗は米を中心に改革を行った
ことから「
米将軍」ともよばれた。

 吉宗はこの他にも、民衆からの声を聞く
目安箱を設置したり、キリスト教以外の洋書の輸入の制限を緩和
し、青木昆陽の意見を取り入れ、ききんに備える
甘藷(さつまいも)の栽培を普及させた。また、株仲間の
結成を認めた
り、裁判の基準となる公事方御定書を定めた。
 
 吉宗による政治改革を
享保の改革という。
 一時は幕府の収入が増加し、財政は立ち直ったが、
享保の大ききんが起こり、年貢の負担が重くなった
農村では百姓一揆が発生し、米の値段が上昇し、江戸では初めての
打ちこわしが起きた。
 
 1772年、側用人から老中になった田沼意次は、幕府の財政を立て直すために、今までの緊縮政策から
商業と結びついて積極的な産業振興を行った。
株仲間を奨励し、そこから税を取り、長崎貿易で輸出を増
やし、商人の経済力の利用を図った。また、
手賀沼や印旛沼(千葉県)の干拓や蝦夷地の開発を計画した。
印旛沼
手賀沼
三井越後屋江戸本店

江戸東京博物館
しかし、商人とのわいろが横行し、政治は乱れ、浅間山の噴火や天明の大ききんも起こって、世情不安が
高まり、10代将軍の家治の死とともに失脚した。
 
 1787年に、徳川吉宗の孫である松平定信が老中になり、改革を行った。1789年に旗本・御家人の救済策
として、武士の借金を帳消しにする
棄捐(きえん)令を出すと同時に、ききんに備えて各藩に米を蓄えさせる
囲い米の制を定めた。
 また、翌年の1790年に、身分秩序を重視する朱子学を正学とし、それ以外の学問(異学)を幕府が直轄す
る学問所(
昌平坂学問所など)で教えることを禁じ、寛政異学の禁とよばれた。さらに、風俗を乱す洒落本や
好色本、政治批判や時事風刺を行う出版物を禁じる
出版統制令も出した。

 松平定信による政治改革を
寛政の改革という。
 保守的な性格が強く、改革がぎびしすぎたので失敗に終わった。

 1833年に
天保の大ききんが起こり、米の値段が急上昇したので、各地で打ちこわしや百姓一揆が多発して
いった。大阪の町奉行所の役人であった
大塩平八郎は、生活に苦しむ人たちを救おうと、1837年、大阪で
反乱をおこした。乱は1日でしずめられたが、幕府内部の者が乱を起こす事件の影響は大きかった。

 12代将軍の家慶(いえよし)の老中となった
水野忠邦は、幕府の財政の立て直しを図った。
 1841年に、物価を引き下げるために
株仲間を解散させ、2年後の1843年には人返しの法を出し、江戸に
流入している農民を強制的に帰農させ、農村の再建を図った。また、この年に江戸・大阪周辺の大名や旗本
の領地を幕府の直轄領にしようとする
上知令を出したが、大名・旗本の反対にあい、忠邦は失脚し、改革も
失敗に終わる。
 水野忠邦の改革を
天保の改革という。
 この改革の失敗以降、幕府の力は急速に弱まっていく。
2.学問の発達と化政文化
 武士や庶民は学問を学ぶようになり、学問の発達がみられた。
 多くの武士は、主人に忠誠を重んじ、親に孝行する上下関係の道を説く
儒学を学び、中でも、忠義や孝行
を重んじ、身分の上下関係を大切する
朱子学は封建社会に適していたことから、幕府にとりたてられた。
 
昌平坂学問所のような幕府の学校や藩で運営する藩校もつくられ、朱子学を中心に教育が行われた。

 庶民では、江戸時代の中ごろから、浪人や僧による
寺小屋がつくられ、農民や町人の子どもに「読み・
書き・そろばん」などを教えた。江戸時代の末期には、1万以上の寺小屋がつくられた。
寺小屋のようす

国立歴史民俗博物館

 新しい学問として、江戸時代の中ごろに、仏教や儒教が伝わる以前の日本人の思想を明らかにしようと
する
国学が生まれ、本居宣長は「古事記」や「万葉集」を研究して「古事記伝」を著し、国学を大成した。
 
 8代将軍の徳川吉宗がキリスト教以外の洋書の輸入を緩和したため、
オランダ語を通じて西洋技術や文化を研究する
蘭学が発達し、のちに
洋学
とよばれるようになった。
 
 
杉田玄白前野良沢らは、オランダの人体の解剖書である「ターヘル
=アナトミア
」を日本語に訳して「解体新書」を著した。
 
平賀源内は寒暖計や静電気を起こす発電機であるエレキテル(起電機)
を発明した。
 
 
伊能忠敬は西洋の天文学や測量術によって、現在の地図とほとんど
変わらない
正確な日本地図である「大日本沿海輿地全図」をつくった
(完成は忠敬の死後)。
 
 オランダ商館医であった
シーボルは、長崎の郊外に鳴滝塾を開き、
医学を教えたが、国外持ち出し禁止の日本地図を入手したため(
シー
ボルト事件
)、国外追放された。

 この他にも、水戸(茨城)藩主であった徳川光圀が命じた「大日本史」に
よる歴史学や、高等数学の理論を展開した関孝和の和算、農作物の栽培
技術を紹介した宮崎安貞の「農業全書」などがある。

 11代将軍家済のころ、江戸の町人を中心に「滑稽(こっけい)」や「皮肉」
を好んだ文化がさかんとなり、
化政文化とよばれる。
解体新書の扉絵

国立歴史民俗博物館


伊能忠敬

富岡八幡宮(東京都)

深川江戸資料館(東京都)
江戸時代の江戸のようす
深川江戸資料館(東京都) 江戸東京博物館
 文学では、十返舎一九が、喜多八と弥次郎兵衛の2人を主人公に、
東海道で旅道中をしながら、庶民の生活をこっけいに描いた「
東海道
中膝栗毛
」があり、滑稽本とよばれた。。また、読本とよばれる読む
文章を主体とする小説のようなものがあらわれ、
滝沢馬琴勧善懲悪
(善が悪をこらしめる)を主張した「
南総里見八犬伝」を残した。

 俳諧では、元禄文化の松尾芭蕉の後、新しい歌風が生まれ、与謝蕪村
小林一茶が活躍した。他に、川柳は俳諧の形式で、狂歌は短歌の
形式で、世の中を皮肉る作品も生まれた。

滝沢馬琴
江戸時代の本屋
 
東海道中膝栗毛
洒落本 滑稽本 江戸東京博物館

 絵画では、浮世絵が多色刷りされ、
喜田川歌麿の美人画や葛飾北斎の「富獄三十六景」、安藤広重
東海道五十三次」が生まれた。
江戸東京博物館
葛飾北斎 富岳三十六景 東海道五十三次
標準問題
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