■ Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.23 インド・中国の古代文明 ■
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1.インドの文明
 紀元前2500年ごろ、インダス川流域で、モヘンジョ=ダロハラッパーなどの都市が
生まれ、インド最初の文明である
インダス文明がおこった。インダス文明の都市遺跡か
ら、道路・上下水道・神殿・水浴場・住宅などがレンガでつくられており、また、土器や青
銅器、金や銀の装飾品、木綿・羊毛の織物のほか、粘土板でつくれた印章なども発見
されたが、その文字は現在であっても解明されていない
インダス文字が使われていた。

 紀元前1500年ごろ、インド=ヨーロッパ語族の遊牧民である
アーリア人がインド西北
部に進入し、部族社会を築いて、雷や火などの自然の神を崇拝し、その賛歌集である
「リグ=ヴェーダ」をうみだした。

 紀元前1000年ごろには、アーリア人は西北から
ガンジス川流域に移動し、青銅器に
かわって
鉄器を用いて森を開墾したり、木製の犂(すき)を生み出していた。

 アーリア人は移動した土地で先住民と同化していく過程で
ヴァルナ制度とよばれる
インダス文明とその都市
身分観念を生み出していった。ヴァルナ制度は、バラモンとよばれる司祭または僧侶を最高の身分とし、その下に
王族や武士であるクシャトリア、農民や商人であるバイシャ、奴隷であるシュードラという4つの身分に分ける制度
で、武士以下の人々はバラモンの力によって救われると信じるようになった。
 このヴァルナ制度はのちに、他の身分の集団の者と結婚したり食事をすることを制限した
カースト制度と結びつく
ようになった。

 紀元前6世紀ごろ、部落社会がくずれはじめ、王の権力が強くなり、いくつもの都市国家がつくられるようになった。
その中で
マガダ国という国が強力な国となり、クシャトリアが社会の実権を握るようになると、バラモンの教えとは
異なる新しい宗教が生まれてきた。

 紀元前500年ごろ、シャカ族の王子であった
ガウタマ=シッタールダ(シャカ:尊称はブッタ)はバラモンの教えを
批判し、仏の前では人は平等であり、バラモンの力に頼らなくても苦しみから救われることを説いて
仏教の教えを
広めていった。

 紀元前4世紀には、マケドニアのアレクサンドロス大王がインダス川流域まで進出してくると、統一国家の必要性を
感じるようになり、紀元前3世紀に
アショーカ王がインド半島の大部分を統一した。アショーカ王は仏教をあつく信じ、
仏教の経典を編集させて、仏教をセイロン島(現在のスリランカ)まで広めたが、財政困難などの原因によって衰退
していった。セイロン島に伝わった仏教は
上座部(小乗)仏教といい、後に東南アジアまで広まっていった。

 1世紀になると、クシャーナ族がインダス川流域にクシャーナ朝をたて、2世紀の半ばごろの
カニシカ王の時代に最
も栄え、中央アジアからガンジス川中流域まで支配した。
 カニシカ王は仏教を保護し、都のあったガンダーラ地方を中心にさかんとなり、大乗仏教
を発展させていった。さらにアレクサンドロス大王の遠征により、ヘレニズム文化が伝わり、
ギリシャ彫刻の技法で仏像などがつくられ、
ガンダーラ美術とよばれる仏教美術がさかん
になった。ガンダーラ美術は
シルクロードを経て中国・朝鮮、さらには日本にも伝えられた。

 4世紀にクプタ朝がおこると、再びバラモンが重んじられ、バラモンの言葉である
サンス
クリット語
が公用語化された。
 また、
シヴァ神などの多くの神々を信仰する多神教であり、現在のインドの独自性をつくる
土台となっている
ヒンズー教が、カースト制度とともに社会に定着していった。バラモンたち
は天文学や哲学を発展させ、十進法やゼロの概念を発明した。
ガンダーラの仏像

写真:東京国立博物館
2.中国の文明
 紀元前6000年までには、黄河の流域ではアワなどの
雑穀が、また長江の流域では稲を中心とする農業が行
われていた。

 紀元前5000年紀には黄河中流域で、
彩文土器とよばれ
彩陶文化が生まれ、長江の中流や下流でも水田施設
をもつ集落の存在が明らかにされた。

 紀元前3000年紀には、集落が大きくなり、小さな国が
形成され、
青銅器文化が始まっていた。

 紀元前2000年紀には、現在確認できる最古の王朝で
ある
という王朝国家が成立した。殷の都のあとである
殷墟からは王の墓をはじめ、占いなどに使われた甲骨
文字
が刻まれた亀の甲や牛の骨などや青銅器が発見
された。甲骨文字は漢字のもととなった。
殷の時代の中国

…殷文化の地域
 殷に服属していたという王朝が紀元前11世紀に殷を滅ぼし、黄河流域から長江流域にかけての華北を支配
した。周王は一族やてがらのあった家臣を
諸侯として、土地(封土)を与えるかわりに各地を治めさせた。このよう
な統治体制を
封建体制という。

 周は紀元前8世紀ごろから衰え、各地の諸侯が実力をもち、約550年間は諸侯が争う時代が続いた。この時代の
前半となる紀元前5世紀末までを
春秋時代、秦に統一されるまでの紀元前3世紀末までの後半を戦国時代という。

 春秋時代の中期以降から、
鉄製の農具や牛耕が普及し、農業生産が高まるとともに、自立した農業経営が可能
となり、氏族の統制が弱くなっていった。

 さらに、戦国時代になると、周の王を無視して自分を王と名乗る諸侯も現れ、統一的な秩序が崩れ、やがて
戦国
の七雄
とよばれる7つの強国がたちならぶようになった。各国とも富国策をとることによって商工業が発展し、青銅
貨幣が用いられるようになり、富める商人も現れた。

 周の世襲的な身分制度が崩れると、個人の実力を重視する
実力本位の価値観が世の中を占めるようになり、
有能な人材の登用が行われるようになった。特に、政治に役立つ
諸子百家と総称される思想家たちは重視され、
最も影響を与えたのが、春秋時代末期にあらわれた
孔子を祖とする儒家の思想であった。

 孔子は、親に対する「孝」など身近な家族の中の道徳に社会秩序の中心をおき、家族の上下関係と愛情を世の
中におよぼしていけば理想的な社会ができるとした。

 孔子の言行を記録した「
論語」は後世にも影響を与え、孟子など戦国時代の思想家たちにも受け継がれ、朝鮮
や日本にも伝えられた。

彩陶土器

殷時代の石彫

殷・周時代の青銅器

春秋時代の青銅器

 
戦国時代の青銅器 漢時代の青銅器 後漢時代の青銅器
写真:東京国立博物館
 戦国の七雄であったが紀元前221年に中国を統一し、王は皇帝の称号を採用し、
始皇帝となった。

 始皇帝は、国を36(のちに48)の郡に分け、そのもとに県をおき、中央から派遣した
管理に治めさせる
郡県制を行い、中央集権化をすすめた。

 さらに、文字や貨幣、ものさし・ます・はかりなどの
度量衡を統一するとともに、思想
の統制も行った。

 中国北方のモンゴル高原に、
匈奴(きょうど)とよばれる遊牧民族がたひたび中国
万里の長城

写真:TAGSANさん
「写真素材 フォトライブラリー」
に侵入してきたので、始皇帝は万里の長城を築き、その侵入を防いだ。同時に南方はベトナム北部まで征服した。

 しかし、民衆は長城や陵墓などの土木工事に加え、戦争や重税に苦しみ、始皇帝の死後は、各地で反乱がおこ
り、秦は統一してからわずか15年で滅んだ。

 秦が滅亡してから、庶民出身の
劉邦と名門出身の項羽がそれぞれ台頭し、紀元前202年に劉邦が中国を統一
して
王朝をたて、高祖の位についた。

 高祖は
長安に都をたて、紀元前2世紀後半の武帝のときに、北方の匈奴を攻め、西方は中央アジア、南方は
ベトナム中部、東方は朝鮮北部まで支配し、
楽浪郡などの4つの郡をおいた。

 しかし、領土の拡大とともに財政が悪化し、塩・鉄・酒などの専売や均輸・平準とよばれる物価調整や抑制法を
行ったが失敗し、武帝の死後はその外戚が実権を握って
という国をたてた。

 新は実情とあわない政治や改革を行ったので、まもなく倒れ、漢一族の劉秀が漢を復興し、皇帝の位について
光武帝となった。これ以降の漢を後漢といい、以前の漢を前漢という。後漢は都を洛陽にうつし、内政を重視した
政治を行った。

 漢の時代には製紙技術が改良され、木や竹に書かれていた文字を
に書くことが普及するようになり、さらに
は書物がつくられるようになった。重要な書物として、武帝の時代に
司馬遷がまとめた「史記」と後漢の時代に
班固がまとめた「
漢書」が代表的である。「漢書」の巻28の地理志には、日本(倭)についての記述があり、後の
南朝宋の時代につくられた歴史書「後漢書」の東夷伝には、倭の奴国が光武帝から金印を授かったという記述
が残されている。

◆漢書・地理志
 それ楽浪海中に倭人あり。分れて百余国となる。歳時をもって来り献見すという。

◆後漢書・東夷伝
 建武中元二年(57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人みずから大夫と称す。倭国の極南界なり。
 光武、賜ふに印綬をもってす。
 また漢の時代には、絹織物や漆器・
陶器などの手工業が発達し、それに
ともない商業もさかんになっていった。

 前漢の武帝が中央アジアを支配する
と、砂漠のオアシス都市をむすんで西
アジアやインドへの交通路が開け、
この交通路を
シルクロード(絹の道)
とよび、絹織物がローマ帝国まで運ば
れ、馬やぶどうなどが中国にもたらさ
れた。インドでおこった仏教は1世紀ご
ろにこの道を通って中国に伝わった。
2世紀ごろの世界とシルクロード

 後漢は、こののち官僚と側近との争いや、張角を指導者とする宗教結社がおこした黄巾の乱などで、各地に
軍事集団が割拠し、220年、後漢は滅んだ。
3.南北アメリカ大陸の古代文明
 氷河時代、ベーリング海峡とアジアは地続き
であった。このため、モンゴロイド系と考えられ
る人々が移住し、のちにヨーロッパの人々から
インディオまたはインディアンとよばれ、アメ
リカ大陸の先住民となった。

 インディアンたちは北アメリカで狩猟と採集を
中心とする文化を発展させていった。

 また中央アメリカのメキシコ高原や南アメリカ
のアンデス高地では紀元前2000年紀からトウ
モロコシなどを栽培する農耕文化が発展して
いった。

 メキシコ湾岸で、紀元前1000年ごろまでに
はオルメカ文明が成立し、4世紀から9世紀に
かけては中央アメリカのユカタン半島で
マヤ
都市国家が栄えた。マヤ文明は二十進法や、
暦・絵文字、ピラミッド状の建築物など独自な
文明を発達させた。
アメリカの古代文明
 メキシコ高原では、紀元前2世紀にテオティワカン文明が
生まれ、そこに12世紀に
アステカ人が進出し、ピラミッド型
の神殿や絵文字を発達させ、14世紀にはテノテチティトラン
を首都とする王国をたてた。

 紀元前1000年ごろ、アンデス高地北部にチャビン文化が
成立し、その後はいろいろな王国があらわれ、15世紀後半
にエクアドルからチリにかけて
インカ帝国があらわれた。

 インカ帝国は、石造建築に優れ、
マチュ=ピチュの遺跡を
マチュ=ピチュの遺跡

写真:ゆきんこさん、Sakakiさん
「写真素材 フォトライブラリー」
残した。また灌漑施設による農業も行われていたが、文字はなく、縄の結び方によって伝達したり記録を残した。

 古代のアメリカ文明は、金・銀・青銅器など金属器は使用していたが(青銅器は南アメリカのみ)、鉄器は使わず、
馬や車もなかったのが特徴である。
確認問題
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