■ Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.24 中国の律令国家とアジア ■
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1.中国の分裂と律令国家
 3世紀に後漢が滅亡すると、の3国が争う三国時代となった。3国の中では魏が
最も力があり、蜀を滅ぼした。しかし、魏の将軍であった司馬炎が国をうばって
晋(西晋)をた
て、呉を破り、中国を統一した。

 晋はその後、帝位をめぐって一族が争うようになると、その内乱に乗じて北方や西方にいた
遊牧諸民族が黄河流域に侵入し、つぎつぎに国をたてたが(
五胡十六国)、やがて北魏
太武帝が黄河流域の華北を統一した。北魏はその後、さらに東西に分裂し、北魏を含む5国
北朝という。

雲崗の石仏

写真:東京国立博物館
 一方、晋は長江流域の江南にのがれ、東晋として晋を復興させたが、その後滅亡し、4国が続き、その4国を南朝
いい、北朝の5国と南朝の4国が続いた時代を
南北朝時代という。

 後漢から南北朝時代を通じて、官吏は
九品中正とよばれる推薦制度が行われ、有力な豪族か上級の役職を独占する
ようになり、貴族の勢力が強い時代となった。

 貴族は大きな荘園と多くの隷属民をしたがえて、農産物や手工業製品などを自給していった。

 また、この時代は仏教がさかんとなり、北魏の時代には
雲崗竜門の岩のがけに大きな石仏がつくられた。
中国の分裂時代と律令時代
 581年に北朝の北周からおこったの文帝は、589年に南朝の陳を倒して中国を統一し、都を長安にさだめた。

 隋は南北朝時代の諸王朝が行っていた
均田制租庸調制(土地を国有とし、戸籍を作成して農民に土地を分け与え、
そこから税や労役などを課す制度)などを取り入れると同時に、九品中正の制度を廃して、
科挙とよばれる儒学の試験
による官吏登用の制度を行い、中央集権化を図った。

 隋の2代目の皇帝である
煬帝は、稲作地帯の長江流域と政治の中心地である黄河流域を結ぶため、大運河を完成さ
せた。

 しかし、農民にとってこれらの土木工事の負担は大きく、高句麗遠征が失敗すると各地で反乱がおこり、隋は
李淵(唐
の高祖)によって618年に滅ぼされ、唐がたてられた。

 唐は
長安を都とし、中国を統一すると、北方はモンゴル高原の遊牧民族である東突厥を服属させ、西方はシルクロード
にそったオアシス都市を領有し、中央アジアではイスラム帝国と戦い、東方では新羅と結んで百済・高句麗を滅ぼし、
南方ではベトナム北部を領土にした。

 唐は隋の制度をうけついで、
という体系だった法制度を整え律令国家をつくりあげた。中央には三省・六部
とよばれる機関をおき、官吏は科挙によって採用が行われた。税の制度も隋をうけつぎ、均田制と租庸調制を行った。
 また、軍隊については、一定期間農民に兵役を与え、都の警備や辺境の守備をあたらせるという、西魏の時代に行われ
ていた
府兵制とよばれるものをうけついだ。

 首都である長安は東西9.5km、南北8.5kmの長方形の都市で東アジアの地域での首都建設のモデルとなった。

 シルクロードの陸路や東南アジア・インド沿岸の海路を通じて、長安には周辺諸国からの使節や留学生・商人など
が集まり、その中には日本の
阿倍仲麻呂のように外国人であっても官僚になるものもいた。

 また唐の時代には、帝室や貴族が仏教を保護したので、仏教が栄えることになった。
玄奘義浄は仏典を求めて、
インドまで行く者もいた。玄奘の旅行記は「大唐西域記」として著され、孫悟空を主人公とする「西遊記」は玄奘をモデル
としている。

 科挙には詩作が重視されていたため、
杜甫李白白居易などの独創的な詩風をもつ詩人が活躍し、日本の文化にも
影響を与えた。
三国〜西晋時代
の青磁器
西晋〜東晋時代
の青磁器
東晋〜南朝時代
の青磁器
南朝時代の
青磁器
唐三彩
 
隋〜唐時代の白磁器
唐〜五国時代の青銅器
写真:東京国立博物館
 7世紀末の中国史上唯一の女帝である則天武后は、積極的な科挙による登用を行った結果、古い家柄の貴族から
科挙官僚に政治の中心がうつっていった。

 8世紀の初めに即位した
玄宗の時代には、人口が増加し、商業が発達してくとともに、農民に貧富の差が大きくなり、
没落した農民は逃亡するようになった。均田制・租庸調制度が崩れはじめ、府兵制も維持できなくなると、傭兵による
軍隊がつくられ(
募兵制)、指揮官にあたる節度使が辺境を防備した。

 8世紀の中ごろ、節度使の安禄山や吏思明による
安史の乱がおこると、唐の統制力は弱くなっていった。

 8世紀の終わりごろに、租庸調制にかわって
両税法とよばれる税制を採用し、塩の専売も唐が行うようになると、9世
紀後半に大きな反乱がおこり、全国に広がるようになり、10世紀の初めに節度使の
朱全忠によって唐は滅ぼされた。

 朱全忠は
後梁を建国したが、50年間のうちに華北では有力な使節度が国をたて、そのほかの地方でも10あまりの
国が興亡したことから、この時代を
五代十国時代という。
2.朝鮮半島
 朝鮮半島では、紀元前2000年ごろから、あわなどの雑穀の栽培がはじまり、紀元前1000年以降には稲作が半島の
中部・南部で行われるようになった。また青銅器が使われ、、のちに鉄器も使われるようになった。

 紀元前2世紀末に漢の武帝が半東北部に楽浪郡がおかれ、漢の支配下にあったが、紀元前1世紀ごろに楽浪郡
の北部に
高句麗という国がおこり、半島南部では小国がいくつもできていた。

 4世紀はじめに、高句麗は楽浪郡を滅ぼし、半島北部を支配し、半島南部では東側に
新羅、西側に百済、南側に
加羅という国が分立していた小国をそれぞれまとめていき、高句麗、百済、新羅が並立していた時代を三国時代
いう。

 日本(倭)は百済と加羅と協力して高句麗と戦ったことが、高句麗の
広開土王(好太王)の碑に残されている。
 6世紀になると、新羅が勢力を強め、唐と結んで百済・高句麗を滅ぼした。日本は百済に援軍を
送ったが、663年に
白村江の戦いで敗れ、日本は朝鮮半島の支配を失った。

 新羅はその後、676年に唐の支配をしりぞけ、朝鮮半島の大部分を支配した。新羅は唐の律令
制度を導入したが、社会基盤は
骨品制とよばれる氏族的な身分制度であった。また仏教を保護し、
首都である金城(現在の慶州)を中心に
仏国寺などの寺院が建てられ、仏教文化が栄えた。

 新羅は8世紀後半ごろから衰えはじめ、10世紀前半に
高麗が新羅を滅ぼした。高麗もまた仏教
を保護し、仏教経典を集成して
「大蔵経」をつくり、また高麗青磁とよばれるすぐれた磁器や世界最
初の金属活字も発明された。
仏国寺

写真:takuyaさん
「写真素材 フォトライブラリー」
 高句麗が滅亡した後、中国の東北地方では渤海という国がたてられ、8〜9世紀にかけて栄えた。渤海は唐の
律令制度をとりいれ、日本とも通交が行われた。
3.中国の周辺諸国
 6世紀の中ごろに、モンゴル高原を中心に、突厥という国がたてられ、のちに南北に分裂したものの、唐が建国される
際には騎馬軍団で援助し、大きな勢力をもっていた。8世紀に東突厥という国を滅ぼしてたてられた
ウイグルは、唐の
中期時代に唐が混乱すると圧迫したが、9世紀にキルギスという国に滅ぼされた。

 突厥とウイグルの時代には、独自の文字がつくられ、北方遊牧民の最初期の文字であった。

 チベットでは、ソンツェン=ガンポが7世紀に統一国家をつくった。チベット文字という独自の文字を用い、インド仏教と
チベットの民間信仰が融合された
チベット仏教(ラマ教)が生まれた。

 チベットは8世紀の後半に、唐との争いがおこり、
南詔が強くなり、唐の影響を受けながら栄えた。

 唐の影響は東南アジアにも広がり、カンボジア・チャンパー・シェリーヴィジャヤといった、インド文化を受けた国々も
唐に朝貢を行わせた。

 ベトナムはこれまで中国に支配されていたが、10世紀後半に独立国家がたてられ、11世紀のはじめに李氏が
大越国
をたて、仏教や儒教がさかんに行われた。
確認問題
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