■ Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.5 奈良時代 ■
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1.平城京と聖武天皇の政治
 710年、元明天皇は唐の都である長安にならって奈良に平城京
つくった。東西南北に広い道路が通り、宮殿や役所、貴族の屋敷など
があり、10〜20万人くらいの人が住んでいた。市も開かれ、
和同開珎
(わどうかいちん)という貨幣も使われた。

 8世紀の中ごろに、伝染病が流行し、また、災害や貴族の争いなど
も起こったため、仏教を深く信仰していた
聖武天皇は、仏教によって
国を安定させようと、都に
東大寺を建て、行基という僧を中心に大仏
つくらせ、国ごとに
国分寺国分尼寺を建立させた。

平城京羅生門(模型) 写真国立歴史民俗博物館
 しかし、大仏や国分寺などの建設には多くの費用がかかり、財政が
悪化した。

 聖武天皇が即位する以前から、農民の中には重税から土地を捨て
て逃げだす者が現れ、
口分田が不足していた。

 そこで朝廷は723年に
三世一身法(さんぜいいっしんのほう)を出し、
新しく土地を開墾した者は本人と子ども、孫の三世まで私有を認めさ
せた。しかし、期限が近づくと再び土地は荒れはじめ、あまり効果が
なかった。
 

東大寺大仏 写真:ゆんフリー写真素材集
 聖武天皇は、三世一身法に代わる法律として、743年に墾田永年私財法を出し、開墾した土地の永久私有を認めた。
この法律によって、貴族や寺院、地方の豪族たちは農民を使って開墾を行い、私有地を広げるようになり、公地公民制
はくずれ、この私有地は後に
荘園とよばれるようになった。

 聖武天皇の死後、
道鏡という僧が台頭し、僧侶が政治に口出しするようになり、さらには天皇の地位さえもねらったが、
和気清麻呂(わけのきよまろ)によって防ぐことができた。

 僧侶を政治から排除しようとした
桓武天皇は、都を奈良から京都に移し、長岡京をつくったがうまくいかず、後の794年
平安京に都をうつすことになる。
2.天平文化
 仏教を保護した聖武天皇と遣唐使がもたらした唐の文物などによる国際色豊かな文化が起こ
り、
天平文化という。

 日本は唐の文化を取り入れるために、630年〜894年までの間に十数回にわたって
遣唐使
送った。当時では、海難などの危険が多く、命がけの航海であった。

 
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は留学生として唐に渡ったが、帰ることができず、唐の朝廷で
一生を送った。また、唐の高僧であった
鑑真は、日本に渡る途中で盲目となりながらも、来日し
て、平城京に
唐招提寺を建てた。

 建築では、世界最大の木造建築物である
東大寺大仏殿や、聖武天皇の遺品などが収められ
ている
校倉造の東大寺正倉院があり、正倉院の宝物の中にはギリシャ・インド・ペルシアから伝
わったものもある。

 書物の編集にも力を入れ、
稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗記していたものを太安万侶(おおの
やすまろ)が書き上げた、神代から推古天皇までの神話や物語で書かれた歴史書である
古事記
や、
舎人親王(とねりしんのう)らが中心となって神代から持統天皇までの天皇家の歴史を年代
順にまとめた歴史書である
日本書紀がある。
 

唐招提寺金堂
写真: 列島宝物館

東大寺大仏殿
写真:ゆんフリー写真素材集
 万葉がなとよばれる文字が使われるようになり、約4500首を収めた、日本最古の歌集である万葉集がつくられた。天皇
や貴族だけではなく、農民や防人など身分の低い者の歌もある。
額田王(ぬかたのおおきみ)、柿本人麻呂や、山上憶良
が重税に苦しむ農民の姿を歌った
貧窮問答歌が有名である。

 諸国の地理や由来、伝説・特産物などをまとめた
風土記(ふどき)もつくられた。出雲(島根県)の風土記は完全な形で
残り、常陸(茨城県)・播磨(兵庫県)・豊後(大分県)・肥前(佐賀・長崎県)が現存する。
標準問題
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