■ Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.3古墳時代 ■
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1.大和朝廷
 共同生活社会が「むら」から「くに」へ発展していき、大和地方の豪族たちが連合で
つくった国が5世紀頃に九州地方から東北地方南部まで支配していった。この国は

大和朝廷
とよばれ、その王を大王(おおきみ)といい、のちに天皇とよばれるように
なった。

 大和朝廷は
氏姓制度とよばれる制度をつくり、豪族の一族による集団である(うじ)
に、大王が朝廷での称号である臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・直(あたえ)など家柄
や地位を示す
(かばね)を与えて決まった仕事をさせていた。

 大和朝廷は朝鮮半島南部にあった加羅(から)(任那(みまな))に兵を送り、勢力を
のばしたり、4世紀末には百済(くだら)と結んで高句麗(こうくり)と戦ったり※1、南朝
の宋に使いを送る※2など、国内だけではなく、大陸まで勢力を拡大しようとしたり交易
をしていた。

こうした交易などによって、中国や朝鮮から日本に渡り、日本に住む人も現れ、そうし
た人を
渡来人とよんだ。渡来人の伝えた技術として、5世紀に大陸から漢字儒教
伝わり、6世紀には百済から
仏教が伝えられた※3。この他にも、土木技術や須恵器
5世紀頃の中国・朝鮮
とよばれる新しい土器などが伝えられた。

 後に、仏教の受け入れをめぐり、賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏が対立し、587年に
蘇我馬子が物部氏を滅ぼし、仏教は
日本に広く浸透していく。
※1 好太王碑(こうたいおうひ)
 高句麗の好太王(広開土王)の功績をたたえた碑文の中に、4世紀末に百済と結んだ大和朝廷と戦ったことが記されている。

※2 「宋書」倭国伝
 南朝(宋)の歴史書で、大和朝廷の5人の王が南朝に使いを送ったことが記されている。南朝では「
倭の五王」と書かれており、
 讃・珍・済・興・武(さん・ちん・せい・こう・ぶ)の5人の名前があり、このうち、武は
雄略天皇(ワカタケル大王)とされ、倭の王と
 しての地位と朝鮮半島南部の支配を認めてもらうことが目的だった。

※3 漢字と仏教の伝来
 漢字は儒教とともに大陸から伝わり、埼玉県の
稲荷山古墳から出土した鉄剣や、熊本県の江田船山古墳から出土した太刀
 には「
獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」なと日本語が漢字で刻まれており、5世紀の中ごろには日本語を漢字で表すように
 なった。
 仏教は538年(552年という説もある)に百済の聖明王(せいめいおう)が日本の欽明(きんめい)天皇に仏像と経典を贈ったこと
 が公式な伝来とされている。
2.古墳時代
3世紀後半頃から日本の各地で古墳と呼ば
れる大きな墓を築くようになり、この時代を
古墳時代という。

古墳は円形をした
円墳、四角形の形をした
方墳、その2つを組み合わせた前方後円墳
などがあり、大阪府堺市の
大仙(大山)古墳
は仁徳天皇の墓とされ、面積は世界最大で
ある。

 古墳の周りや上などには、素焼きでつくら
れた
はにわが置かれ、円筒形の形をしたも
のや、人や動物、家や船などをかたどった
ものがある。

 古墳の内部は、石で作られた部屋があり、
大きく
竪穴式石室横穴式石室の2つがあ
り、竪穴式石室は古墳時代の前期から中期
に見られ、遺体を埋葬した後に長方形の石
室をつくり、その上に土を盛っていった。


はにわ
芝山古墳はにわ博物館

前方後円墳(箸墓古墳:模型)
国立歴史民俗博物館

銅鏡
国立歴史民俗博物館



横穴式石室(模型) 国立歴史民俗博物館
横穴式石室は古墳時代後期の形で、石で作られた入口と遺体を安置する部屋(玄室(げんしつ))、入口と玄室をつなぐ道
(羨道(せんどう))があり、追葬できる形でもあった。また、遺体とともに
、玉、武器などの副葬品も埋葬された。
標準問題
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