■ Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.6 平安時代 標準問題 ■
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1.次の[ @ ]〜[ Q ]に適切な言葉を答えなさい。

 8世紀末に即位した[ @ ]天皇は奈良の大寺院の勢力を抑えて794年に[ A ]に都を
移した。この都を[ B ]といい、この年から約400年間を[ C ]時代という。

 9世紀から新しい仏教が伝えられ、[ D ]宗は比叡山[ E ]寺で[ F ]が、[ G ]宗
は[ H ]金剛峰寺で[ I ]がそれぞれ伝え、朝廷はこれらを保護した。また外交面では
[ J ]を[ K ]に任命し、東北地方を平定した。

 この時代、貴族の中で[ L ]氏は娘を天皇と結婚させて、自分たちは[ M ]、[ N ]
の役職を得て政治の実権を握り、[ O ]政治とよばれ、特に[ P ]と[ Q ]父子のころ
が最も栄えた。


2.次の[ @ ]〜[ S ]に適切な言葉を答えなさい。

 平安時代に藤原氏以外で政治に力をもったのが[ @ ]であった。藤原氏は彼を排除しよう
と894年に遣唐大使に任命するが、彼は天皇に[ A ]の廃止を訴え、その意見が取り入れら
れた。これにより、日本独自の文化が生まれ、[ B ]文化という。

 その文化では、漢字からひらがな、かたかなといった[ C ]が生まれ、それによって最初
の物語である「竹取物語」、貴族の光源氏を中心に平安の王朝貴族の生活を描いた[ D ]
の「源氏物語」、随筆としては[ E ]の「枕草子」、日記では紀貫之が書いた「[ F ]」
などが作られた。

 和歌も漢詩だけではなく、和歌も作られるようになり、醍醐天皇の命令により、[ G ]、
在原業平、小野小町を中心によって編纂された[ H ]がある。天皇の命によって編集され
た和歌集を[ I ]という。

 貴族たちは[ J ]とよばれる建築物の邸宅をつくり、中央の寝殿に主人が住み、左右
対称の対屋、池をつくって釣殿、泉殿などから舟遊びも行なわれた。代表的な建物として、
[ K ]が建てた宇治[ L ]鳳凰堂がある。

 11世紀になると、釈迦が亡くなってから2000年後からは末法という世に入り、仏法が衰える
乱世になるという[ M ]が貴族の間で信じられるようになった。貴族たちは阿弥陀仏の力に
よって自分の死後の来世は極楽浄土で生まれ変わるという浄土教にひかれるようになり、
「南無阿弥陀仏」という[ N ]をとなえ、寺院をつくって祈るようになった。

 浄土教の僧として、[ O ]は諸国を遊行したのち、念仏を庶民に広め、[ P ]は「往生
要集」を著し、念仏による極楽浄土の方法を示した。また、奥州藤原氏は平泉(岩手県)に
[ Q ]という阿弥陀堂を建てた。

 絵画では、日本的な風物をテーマにした、やわらかい線と色彩で描いた[ R ]が寝殿造
の屋敷のふすまや屏風などに使われ、源氏物語などのシーンを描いた[ S ]などが生まれ
た。


3.次の[ @ ]〜[ S ]に適切な言葉を答えなさい。

 平安時代の中ごろから、地方では国司の不正が多く起こり、また郡司や有力な農民は豪族
と成長し、勢力争いをするようになった。荘園の所有者は自分の土地を守るために、一族や
家来に武器を持たせるようになり、これが[ @ ]のおこりである。

 武士はより有力な武士を棟梁(とうりょう)として傘下に入り、[ A ]が形成されていった。
935年に関東で[ B ]が、939年には瀬戸内海で[ C ]が反乱を起こした。これらの乱を
平定したのも[ A ]であった。

 [ A ]はさらに互いに勢力を争いながら、貴族や天皇など血すじや家柄のよいものに集ま
り、清和天皇の子孫である[ D ]と桓武天皇の子孫である[ E ]の2つの大きな[ A ]
ができるようになった。

 1051年に陸奥の豪族である安部時頼が国司に反抗し、[ F ]が始まった。朝廷の命に
よって、源頼義・義家父子が1062年に平定し、源氏の東国確立のきっかけとなった。

 さらに1083年には東北地方の清原氏の相続争いをきっかけに反乱となり、[ G ]とよばれ
源義家が平定した。これによって、源氏が武家の棟梁としての地位が固まった。また、この反乱
の平定に協力した藤原清衡は奥州平泉を支配し、基衡、秀衡の3代にわたって[ H ]として
支配した。

 この頃、朝廷では[ I ]が天皇を子(堀川天皇)に譲り、自分は[ J ]になって院とよば
れる役所をもうけて政治を行なうようになった。天皇の位を譲り、上皇または法皇となって政治
を行なうことを[ K ]という。

 1156年、崇徳上皇と後白河天皇、藤原忠通と頼長の兄弟が対立し、天皇側に味方した
[ L ]と源義朝が勝利し、院政の混乱と武士の進出を示す事件となり、[ M ]という。

 1159年、[ M ]で勝利した平清盛と源義朝の争いで、[ L ]が勝利し、源義朝は殺され、
その子である[ N ]を伊豆に流した。これを[ O ]という。これによって、平氏繁栄のきっ
かけをつくった。

 [ L ]は娘の徳子を天皇の后にし、朝廷の最高の位である[ P ]にとなって権力を握る
ようになった。また[ Q ](現在の神戸港)を整え、[ R ]と貿易を行なった。その貿易での
輸入品は主に[ S ]、陶磁器、絹織物、書物で、輸出品は金、いおう、刀剣、漆器であった。


4.次のA〜Eは平安時代に生きた人の自己紹介です。それぞれだれなのか、ア〜オの
 中から選び、記号で答えなさい。また、その人がつくった短歌または文学作品をa〜e
 の中から選び、記号で答えなさい。


 A.私は学問の知識が豊富で、いろいろな才能もあったのですが、生きている時はとにかく
   周りの人から迫害を受けていました。外国への左遷はなんとか逃れたものの、地方への
   左遷は断ることができず、そこで生涯を閉じました。しかし、私の死後は私のことを天神様
   と呼ぶようになり、神様としてあがめられているので、自分の苦労が認められたことには
   満足しています。

 B.私はかな文字の発明によって多くの人を感動させる物語をつくることができました。もしか
   すると、私が世界で最初の長編小説を書いたのかもしれません。美男子の王子様を主人
   公とする恋愛や宮中での生活を描いており、その後の少女マンガの原形となったのかも
   しれませんね。

 C.私はこの時代の中心人物でした。一時は私に逆らう者は一人もおらず、天皇でさえも私
   に従うほどでした。しかし、よく考えてみれば、前の時代の蘇我氏であろうと、次の時代
   の平家であろうと、結局は同じなんですね。時代は同じことを繰り返し、ただその家がら
   だけが変わっていくにすぎないことを知るべきでした。

 D.私は随筆を書いて高い評価を得ました。特に冒頭の部分は現在でも知っている人が多く、
   この国の自然観を巧に表しているかと思います。これもAさんが行なった政策によるもの
   だと思っており、とても感謝しています。ちなみに、Bさんとは、よくライバル視されています
   が、実のところ、どうなんでしょうね。

 E.私は現在の高知県の国司でした。その任期が終わって京都に向かうまでのブログは、
   ネカマを演出していたということもあったのか、当時はとても人気がありました。その後、
   朝廷では内裏の修理担当に任じられましたが、天皇から特別な命令があって、勤務中
   よりも、アフターファイブの方が大変でしたね。

  ア.紀貫之  イ.菅原道真  ウ.清少納言  エ.藤原道長  オ.紫式部

  a.男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり。

  b.春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびき
    たる。

  c.東風(こち)吹かば 匂ひおこせし 梅(むめ)の花 あるじなしとて 春な忘れそ

  d.いづれの御時にか、 女御、更衣あまた さぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき
    際にはあらぬが、すぐれて 時めきたまふありけり。

  e.この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思へば
解答と解説
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