■ Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.7 鎌倉時代 標準問題 ■
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1.次の[ @ ]〜[ S ]に適切な言葉を答えなさい。

 平氏の専制政治に貴族や他の武士の不満が高まり、1180年、後白河法皇の子どもである[ @ ]
が全国の源氏に平氏追討命令を出し、伊豆に流されていた[ A ]が挙兵し、源平合戦が始まった。

 頼朝の弟である[ B ]は一の谷(兵庫県)の戦い、屋島(香川県)の戦いで平氏を破り、ついに
[ C ](山口県)の戦いで平氏を滅ぼした。

 平氏が滅びゆく中、[ A ]は国ごとに[ D ]、荘園ごとに[ E ]を設置して、御家人を任命し、
全国を支配していった。1192年、[ A ]は[ F ]に任命され、神奈川県の[ G ]で幕府を開いた。

 将軍に仕える武士を御家人といい、将軍は御家人の土地を保障したり、手柄に応じて新しい土地を
与えるという[ H ]を与えると同時に、御家人は将軍への忠誠を誓い、戦の時には一族を引き連れ
て「いざ鎌倉」などと言いながら出陣する[ I ]とよばれる労役を行なった。このような関係を主従関
係といい、こうした主従関係にもとづく制度を[ J ]という。

 頼朝の死後、子どもの頼家と[ K ]が将軍になったが、政治の実権は、頼朝の妻であった[ L ]
とその父である[ M ]にうつっていた。源実朝が頼家の子である公暁(くぎょう)によって殺されてし
まうと、源氏の血筋がいなくなり、北条氏は朝廷から名目だけの将軍を迎え、自分たちは[ N ]と
なって政治を動かすようになり、これを[ N ]政治という。

 1232年に、[ O ]は51か条からなる鎌倉幕府の基本法律を制定し、[ P ]という。武士による
はじめての法律で、政治や裁判のしかたを定め、後の武士の法律の手本ともなった。

 荘園や公領が地頭に侵略されていた[ Q ]は、源氏が3代で途絶えると、1221年に幕府に不満を
もつ武士や貴族に呼びかけて、執権であった北条義時を倒そうとしたが、義時の子である北条泰時が
総大将として京都を攻め、後鳥羽上皇を隠岐(島根県)に流した。これを[ R ]という。この後、朝廷
の監視と西国の御家人の支配を行なう[ S ]がおかれた。


2.次の[ @ ]〜[ O ]に適切な言葉を答えなさい。

 鎌倉時代、中国では[ @ ]がモンゴルを統一してモンゴル帝国を建国していた。5代皇帝の[ A ]
はさらに中国を支配し、[ B ]とした。[ B ]は朝鮮の[ C ]も支配し、8代執権である[ D ]に
も服従を求めたが、[ D ]はこれを拒否した。

 [ A ]が1274年、大軍を率いて北九州の博多湾を攻め、集団戦法と[ E ]とよばれる火薬兵器に
日本軍は苦戦したが、内陸への侵入を阻止した。これを[ F ]という。

 1281年、元軍[ A ]は再び日本を攻めてきたが、前もって防塁を築き、相手の戦法も知ってたので、
撤退させることができた。また、暴風雨が起き、海上にいた敵の軍を壊滅させることもできた。これを
[ G ]という。また、[ F ]と[ G ]の2つをあわせてという。

 
 [ H ]によって御家人の借金が増えたので、幕府は御家人を救済するために、借金を帳消しにする
[ I ]を出したが、その後、御家人にお金を貸すものがいなくなり、かえって生活を苦しめ、幕府への
不満が高まっていった。
 
 その一方で農業や産業は発達し、近畿地方など、西日本の一部では、農地の地力向上によって、米
をつくった後に麦を収穫する[ J ]が始まった。

 農業の進歩は、鉄製の農具や刃物をつくる鍛冶や、紙をつくる紙すきなどの[ K ]を生ませ、商品を
つくるようになった。さらに、商品や年貢を運ぶ[ L ]という運送業者まであらわれるようになった。
[ K ]や商人は[ M ]とよばれる同業者の組合をつくり、利益を守るようになった。

 商品生産の成長により、交通の要地や寺社の門前、人の多く集まるところでは月に3回ほどの[ N ]
が開かれるようになり、売買には日宋貿易で行なわれていた[ O ]が使われた。


3.次の[ @ ]〜[ S ]に適切な言葉を答えなさい。

 鎌倉時代の文化は、今までの貴族の文化とは異なり、中国の[ @ ]の影響を受けながらも素朴で力
強いものが多く、貴族や武士だけではなく、一部の庶民まで広がりを見せている。

 平安時代では貴族だけに信仰されていた浄土教を、[ A ]が「南無阿弥陀仏」という念仏だけを唱え
れば極楽往生できるという[ B ]を説き、庶民にも信仰できるようにした。その後、新しい仏教が次々
と生まれ、人々に広まっていった。

 [ A ]の弟子であった親鸞は、阿弥陀仏が救おうとしている人は、自力で修行してそれに満足してい
る人よりも、自分を悪人だと自覚している人であるという悪人正機説を唱えて[ C ]を開いた。

 一遍は、[ D ]を開き、念仏を唱えながら鉦(かね)や太鼓に合わせて踊る[ E ]という形で信仰
を広めていった。

 [ F ]が開いた日蓮宗は、お経の名前である「南無妙法蓮華経」という[ G ]を唱えることを主張
した。

 中国では、座禅によって悟りを開く[ H ]が広まり、日本にも影響を及ぼし、2つの宗派が広まった。
[ I ]は、与えられた問題を座禅を組んで解く臨済宗を開き、幕府の保護を受け、上級の武士に支持
され、[ J ]は、ひたすら座禅を組むという曹洞宗を開いた。

 建築では、源平合戦で焼失した奈良の[ K ]が再建され、天竺様という雄大で力強い建物になって
いる。また、鎌倉の円覚寺舎利殿は、[ L ]とよばれる繊細で美しい建物が特徴である。

 彫刻では、[ M(2人) ]による東大寺南大門の金剛力士像が有名である。

 文学では、平氏の栄華と滅亡までの物語である「[ N ]」が、盲目の僧である琵琶法師によって語ら
れた。また、吉田兼好の「[ O ]」と鴨長明の「[ P ]」の随筆はこの時代の特徴である無常観(世の
中は常に変化しているという考え方)を表した作品である。

 和歌では、平安時代の古今和歌集に続いて、[ Q ]が編纂した「[ R ]」と3代将軍である源実朝
の「金槐(きんかい)和歌集」がある。

 絵画では、大和絵の技法を使って、人物を写実的に描く[ S ]があらわれ、源頼朝像が有名である。
また、絵巻物では、九州の御家人である竹崎季長(すえなが)が元寇で活躍したときのようすを描いた
「蒙古襲来絵詞」は有名である。


4.次のA〜Eは平安時代末期から鎌倉時代に起きた場所の説明です。それぞれどこなのか、
  ア〜コの中から選び、記号で答えなさい。また、その場所が現在のどこの都道府県あるの
  か、a〜jの中から選び、記号で答えなさい。

 
 A.この地は源平合戦の舞台となり
  ました。この戦いで平氏は大敗し、
  次の戦いで滅亡することになりま
  した。那須与一の扇の的でもよく
  知られています。

 B.この地は鎌倉時代に最も位の
  高い人が配流されてきました。
  彼が起こした事件によって、京都
  や西国の監視が強化されるよう
  になりました。またこの事件に際
  して、北条政子が御家人たちに
  頼朝の御恩を訴えて、武士の結束
  を固めたことも有名です。

 C.この地は、鎌倉時代に石塁とよ
  ばれる土や石、砂などを積み上げ
  た防塁が約20kmにもわたって
  築かれました。こうした軍役や費用
  が幕府の財政を苦しめる結果と
  なりました。

 D.この地は台風や源平の戦いの兵火で壊滅的な打撃を受けました。鎌倉時代に入って、建物
  の再建が進められ、その建物の入口には有名な僧らによる鎌倉時代の文化を代表する彫刻
  も見られるようになりました。

 E.この地は、北と東西が山で囲まれ、南は海になっているため敵が進入しにくい要害の地とし
 て重要視されました。山を切り開いた道路である切り通しも有名。またこの地の八幡宮の大きな
 イチョウの木の下で、源実朝が公暁によって殺害された地でもある。

  ア.東大寺南大門  イ.一の谷  ウ.鎌倉  エ.壇の浦  オ.佐渡  
  カ.博多湾  キ.円覚寺舎利殿  ク.屋島  ケ.中尊寺金色堂  コ.隠岐
解答と解説
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