■ Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.18 昭和時代(2) ■
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1.占領下の日本と民主化
 敗戦によって、日本は連合国の占領下におかれた。

 1945年、東京に
アメリカのマッカーサーを最高司令官とする連合国軍総司令部(GHQ)がおかれ、日本の政治・経済・教育
にわたる民主化が進められた。

 戦前や戦時中に利益を独占していた三井、三菱、住友、安田などの財閥に対して、持株を公売させて、指定財閥にはその
家族を財界から追放するなど、財閥の
解体が行われた。また、1947年には、企業の独占を防ぐことと、自由競争を確保する
ために
独占禁止法をつくり、公正取引委員会を監視にあたらせた。

 女性にも
参政権を認めさせ、満20歳以上の男女がすべて選挙権をもつようにして、政治に参加できるようにさせた。これに
より、1946年の戦後最初の総選挙では、39人の女性議員が当選した。

 労働者に対しては、労働者の団体権や団体交渉権を保障する
労働組合法をつくり、さらに1946年に労働争議の調整方法や
争議行為を規定した
労働関係調整法を制定し、、1947年には労働条件の最低基準を規定する労働基準法を制定し、労働者
の権利を守らせた。これら3つの法律を
労働三法という。
 1946年、自作農家増加を目的に、国は農村に住んでいない不在地主や、
農村に住んでいる
在村地主であっても、基準を超える小作地を買い上げ、
実際に耕作している小作人に、有利な条件で売り渡す
農地改革を行わせ、
寄生地主制と高率な小作料のもとから農民を解放させた。

 この農地改革は1946年から1950年まで2回にわたって実施し、全小作
農地の約80%が解放され、自作農が増加した。

 また、小作料も物納から金納を定めた。
自作農の増加
 農地改革が行われた同じ年の1946年11月3日、日本国憲法が公布され、翌年の1947年5月3日に施行された。

 主権は国民とする
国民主権と、人権はおかすことのできない永久の権利を保障する基本的人権の尊重、戦争を放棄し、
戦力と交戦権をもたない
平和主義を3大原則とした。

 大日本帝国憲法のもとでは、「神聖で不可侵」であり、「神」とされてきた天皇は、日本国憲法のもとでは、政治の権能を
もたず、日本国と日本国民統合の
象徴となった。
大日本帝国憲法と日本国憲法
大日本帝国憲法 日本国憲法
1889年発布 成立 1946年11月3日公布、1947年5月3日施行
天皇(天皇主権) 主権 国民(国民主権)
法律で制限 基本的人権 おかすことのできない永久の権利
兵役の義務
天皇のもとに設置
軍隊 平和主義
戦力はもたず、戦争は放棄
神聖で不可侵 天皇 日本国と日本国民統合の象徴
貴族院と衆議院 国会 参議院と衆議院
 1947年には、教育基本法が制定され、義務教育や教育の機会均等、男女共学などが規定された。それまで教育の柱と
なってきた教育勅語は、1948年に国会で失効が決議された。
 また
学校教育法を1947年に制定し、六・三・三・四の単線型学校系列を規定し、義務教育を小学校と中学校の9年とした。

 実際には、新しい教科書の作成が間に合わず、今までの教科書の軍国主義的な記述を墨でぬりつぶした
墨ぬり教科書
とよばれるものを使用し、空襲で校舎が焼失し、焼け跡の空の下で授業をする青空教室がしばらく続いた。
2.第二次世界大戦後の世界
 1945年、国際連盟にかわるものとして、世界平和を目的に、戦勝国である連合軍を中心に、51か国が参加して国際連合
が設立された。常任理事国はアメリカ・イギリス・ソ連(ロシア)・フランス・中国の五か国がなった。
 国際連盟の総会が全会一致による
決定に対し、国際連合ではその欠点
を修正して、
多数決による決定とした。

 ただし、総会での多数決は討議と勧告
だけで決定権はなく、最も強大な権限を
もつのは
安全保障理事会で、常任理事
国は
拒否権をもち、一国でも反対すると
決議できず、その濫用で議事が停滞す
ることが多かった。

 国際連合の理念とは裏腹に、1949年、
中国では、
毛沢東のひきいる中国共産
党が中華民国を台湾に追いやり、社会
国際連盟と国際連合
国際連盟 国際連合
1920年 発足 1945年
ジュネーヴ(スイス) 本部 ニューヨーク(アメリカ)
各国1票で全会一致 総会 各国1票で多数決
イギリス・フランス・イタリア・
日本・ドイツ(1926年から)
常任理事国 アメリカ・イギリス・ソ連(ロシア)・
フランス・中国
提唱国アメリカの不参加
全会一致による決定
問題点 安全保障理事会での常任理事国
がもつ拒否権の濫用
主義国でである中華人民共和国を建国し、ソ連と友好同盟条約を結んだ。台湾に逃れた蒋介石ひきいる中華民国政府は
アメリカに依存した。

 こうした関係から、アメリカを中心とする
資本主義諸国(西側)とソ連、中国を中心とする社会主義諸国(東側)が対立する
ようになった。

 西側は1949年に
北大西洋条約機構(NATO:ナトー)、東側は1955年にワルシャワ条約機構という軍事同盟をそれぞれが
結び、互いをけん制しあった。この態勢のまま、直接戦争を行わなかったことから「
冷たい戦争(冷戦)」とよばれ、この冷戦
は1989年まで続いた。

 ドイツは、1949年に資本主義国として
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)、社会主義国としてドイツ民主共和国(東ドイツに分か
れて独立し、
ベルリンの壁が東西冷戦の象徴となった。

 朝鮮は、1948年に、北のソ連の支援をうけた
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と、南のアメリカの支援をうけた大韓民国
(韓国)ができ、その後対立し、1950年、
朝鮮戦争がおこった。戦争は1953年まで続き、「冷戦の中の熱い戦争」とよばれた。
日本はこの戦争によって、アメリカから大量の武器などの注文を受け、
特需景気とよばれる好景気ををもたらし、戦後の復興
のきっかけとなった。

 ベトナムは1945年に
ホー=チ=ミンによって独立宣言を出され、ベトナム民主共和国を建てたが、植民地支配国であった
フランスと対立し、1946年にインドシナ戦争がおこった。フランスは1949年、南部に
ベトナム国を成立させ、北のベトナム共和
国と対抗したが、戦争に敗れ、1954年、ジュネーヴ会議で休戦協定が成立した(
ジュネーヴ休戦協定)。この協定にアメリカ
が反対し、ベトナム国を支援、ベトナム国は1955年にベトナム共和国を樹立して北に対抗したが、内乱がおき、アメリカと
ベト
ナム戦争
を起こした。戦争は泥沼化し、1973年にアメリカ軍は撤退し、1976年にベトナム民主共和国に併合された。

 インドを中心とするアジア・アフリカ諸国は、植民地から独立し、米ソ二大陣営のいずれも関与せず、積極的な中立を主張
した
第三勢力を形成し、1955年、インドネシアのハンドンでアジア・アフリカ会議を開き、平和十原則を発表して、反植民地
主義と平和共存の理念を打ち出した。
3.国際社会の中の日本@
 1950年の6月に朝鮮戦争がおこると、アメリカは日本に駐留している軍隊を朝鮮に派遣した。さらに日本を防備する必要
もあると考えたアメリカは、8月にGHQの指令によって、
警察予備隊を日本につくらせ、現在の自衛隊の前身となった。

 アメリカは日本を自由主義を守る国と位置づけ、アメリカ側の陣営に加える必要性を感じ、1951年、アメリカのサンフラン
シスコで講和会議を開き、イギリス・日本(全権は
吉田茂首相)などの49か国との間でサンフランシスコ条約を結んでいっ
た。

 日本は、この条約によって独立し、GHQは廃止され、
主権を回復した。しかし、この条約とともに、アメリカ軍が日本に基地
をもつことを認める
日米安全保障条約も結ばれ、独立後もアメリカ軍は日本に駐留することになった。

 冷戦の中、米ソの核兵器の開発競争が激しくなると、核実験が各国各地で行われるようになった。1954年、日本漁船の
第五福竜丸が、太平洋上でのアメリカの核実験によって「死の灰」とよばれるものをあび、死亡する乗組員を出す事件が
おきた。この事件によって、原水爆禁止運動が高まり、1955年には、
広島で第1回の原水爆禁止世界大会が開かれた。
しかし、こうした動きの中で1954年、自衛隊が創設された。

 1956年、鳩山一郎首相はサンフランシスコ平和条約の調印を拒否したソ連と
日ソ共同宣言をむすび、ソ連との国交を
回復し、ソ連に日本の
国際連合への加盟を賛成させた。これにより、日本の国際社会への復帰が実現した。
標準問題
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